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自分と音楽との関わりの変遷

第一章 幼少時代

エレキギターを商売道具とする父親を反面教師として、僕は母親の手によって育てられた。「エレキギターを肩にしょっている人はロクでなし」とずっと教えられてきた。親のマインドコントロールとは怖いもので、未だに僕がギターケースを持っている所を人に見られる事を恥ずかしく感じてしまう。3歳からピアノをやらされた僕は、当然の様にジャズやロックではなくクラシックを教え込まれた。中でもショパンが大好きで、「幻想即興曲」や「革命」といった狂気のような曲から「別れの曲」や「雨だれ」「ノクターン」といった流麗で美しい曲まで幅広く、且つ洒落ていて総じて派手な曲が多かったからだろう。一方、モーツァルトは垢抜けない感じがして嫌いで、ベートーベンは暗く不幸になる感じがしてあまり興味がなかった。ピアノのレッスンというのは、たくさんの人が経験していると思うが、最初から有名で派手な曲を弾ける訳ではなく、挑戦させてもらえない。バイエル、ソナチネ、ツェルニーといったつまらない練習曲を一つ一つこつこつやらされながら徐々に有名な派手な曲に挑戦していく。みんな有名な曲を弾きたいと思っているが、途中で挫折してしまう人はその過程にある練習曲がイヤになった人がほとんどだ。

僕は割と早くから有名な曲にも挑戦させてもらっていた。今迄続けてこれたのはそのおかげだと思う。3歳の頃から2人の先生が家に教えに来てくれていた。一人があの有名な作曲家、『題名のない音楽会』の司会でおなじみだった故・黛敏郎先生、もう一人が平島牧子先生だった。今思うとこのバランスもすごく良かった様に感じる。土曜日に黛先生、木曜日に平島先生が毎週来てくれていたが、とても優しい平島先生にやる曲を決めてもらい、ピアノレッスンの後、音楽理論も教わる。死ぬ程怖い黛先生がそれを洗練させていくといった感じ。平島先生は派手な曲をどんどんやらせてくれた。勿論並行して練習曲もやっていたが、有名曲が弾けると思えば嬉しいものでやる気が沸く。それにしても黛先生には何度泣かされた事か・・・
6歳くらいから作曲やオーケストレーションの書き方とかも教わったなぁ。今となれば大切な思い出で、2人の先生には本当に感謝している。黛先生は数年前、何の恩返しも出来ないまま突然病気で亡くなってしまった。ショックだった。僕が大人になった今、男同士の会話とかをしたかったのに。

あとそういえば、幼稚園位の頃「およげたいやきくん」という歌がはやって、クラスの合唱の伴奏をさせられたな。「何で俺だけやらされるんだ?」とか思いながら。伴奏は大嫌いだったけど、みんながピアノを弾けるわけじゃないんだという事を自分で認識した最初だった気がする。